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2003年05月01日〜31日
S.S☆「回りくどい口説き方」☆ あや太郎
ヨーコには父親がいなかった。小さい頃、死に別れたのだ。自分をこの上なく可愛
がってくれた父親だった。五つの時に亡くなったので顔も覚えていない。それでも良
く可愛がってくれたのだけはハッキリと覚えているという。
もう一つ、彼女には淋しい事があった。彼女の家には、父親の写真がなかったの
だ。
幼い頃、父親の写真を見るたび恋しがって泣くので、母親が写真を隠してしまった
という。その隠し場所を教えない内に母親も急逝した。
「わたし、お父さんの顔を知らないの」
「そうか−−そりゃ可哀相だな」
相談した彼氏が困った顔で答えた。何を言っても煮え切らない彼氏なのだ。
「何とか、お父さんの顔を知る方法はないかしら」
「知り合いを当たって記念写真が残ってないか調べたらどうだい?」
「それが一枚も見つからないのよ。照れ屋だったから」
「そりゃ困ったなぁ…」
気のない様子ながら彼氏も一応は考えてみてくれた。
「女の子は、父親に似るって言うから−−鏡を見て面影を探すのが良いかも知れない
よ」「鏡か…」
次の日、彼氏の前に髪を短く刈って七三分けにしたヨーコが現れた。
「どうしたんだ、その髪形?それに、その服…?」
スーツにズボン姿だった。
「これぐらいしたら、父さんのイメージに近づくかなって思って」
姿見の前で色々なポーズを取ってみる。
「どうお?似てると思う?」
「僕は会ったことがないから何とも言えないよ」
「うーん、もう…。ウソでも、そんなもんかなって言ってくれたら気が済んだかも知
れないのに」
「それなら…きっと似てると思うよ」
「手遅れよ。ハッキリしない人ね。あなたが言ったから、こんな恰好までしたのよ。
他の方法を考えて」
「そう言われても困るよ。あとはお父さんの知り合いに聞いてみるぐらいしか無いん
じゃないのかな」
「じゃあ、聞いてみる」
彼氏の車で送らせて、あちこちと知り合いを尋ねる。皆やはり父親と彼女はよく似
てると言うのだが、どうにも決め手が無い。
「やっぱり男と女じゃどこか感じが違うのよね。何か良い手はないのかしら」
「いっそモンタージュ写真でも作ってみるかい?今ならコンピュータで合成して、か
なり正確な写真ができるって言うよ」
「試してみたいわ。あなた、警察や研究所に知り合い居る?」
「そんなものいないよ」
「じゃあ駄目じゃない。あーん、一体どうしたら良いの」
「そんなに慌てなくても良いじゃないか。いずれ子供が出来て男の子が生まれたら、
たぶん君やお父さんに似ている所があるさ。その子が大人になれは恐らくお父さんの
イメージも分かると思うよ」
「そうか−−息子の成長を楽しみにすれば良いのね。じゃあ早く子供を作ろうっと」
「それが解決策みたいだね」
ホッとしたように彼氏が笑っていると−−
「ところが取り敢えずのところ−−相手が−ないのよ」
ヨーコが咎めるように迫った。
「それで…?」
「取り敢えず−−−あなた協力して」
「えっ…何で僕が?」
「だって息子を作れば良いって言ったのはあなたよ」
「いや、まぁ、そりゃそうだけど…」
「ちゃんと男の子が出来るまで協力してよ。そうね…念のために三人くらい作っとこ
うかしら。それぐらいの責任を取ってもらわなくちゃね」
「なるほど…」
かくして二人は結婚した。
−−−それにしても世の中には回りくどい「口説き方」があったものだ。
(完)
2003年05月27日22時58分00秒投稿
S.S☆「ルースを越えろ」☆ あや太郎
二十世紀の末、ついに七十本の大台に乗った大リーグのホームラン記録は、二十一
世紀に入り、再び頭打ちになっていた。六十本は越えるのだが、なかなか七十本を越
えるところまで記録が伸びない。そうなるとファンも正直なもので、観客は減り、プ
ロ野球全体が精彩を欠いてきた。
「誰かスーパースターの出現が待たれますねぇ。例えば、ベーブルースが、もしこの
二十一世紀に現れたら、また画期的な大記録を作って、野球界を盛り上げてくれるん
じゃないでしょうか?」
しかし解説者は渋い顔でこう答えた。
「いや、二十年前
ひさびさにホームラン記録が更新された時にも話題になりましたが
、ルースのフォームやあの肥満体型では現代の野球について行けないでしょう。言い
尽くされた事ですが、彼は昔の野球のスーパースターなんです。現代では通用しませ
ん」
閑古鳥の鳴くスタジアムでは今日ももの淋しく、こんな中継放送が流れるばかり
だった。−−−−−−−
間もなく、大リーグに一人の新人選手が昇格してきた。高校で好投手としてスカウ
トの目に止まり、一年ほどマイナーリーグで鍛えられたあと、投手不足に悩む弱小球
団が拾い上げたのだ。しかしメジャーに昇格した途端、その二十歳になったばかりの
青年は突如、打者転向を申し出た。彼の名はジョージ・ハーマン−−−−ブルドッグ
のような愛嬌のある顔はしかし、凡そ二枚目とは言いかねた。
怒る首脳陣が降格手続きをする間もなく、青年は恐るべき打撃力を発揮しはじめ
た。
オープン線で打率五割…しかもホームラン王に輝いた。
一躍レギュラーに据えられた青年は一年目から三割三十本の成績で新人王に輝き、
二年目には三割三分、四十本を記録した。
ここでようやく野球ファンは青年の特異な風貌に気づきはじめた。
「あのトッちゃん坊や−−伝説のルースに似てるんじゃないか?」
「そうだ。あれはベーブルースの再来だ」
三年目、ハーマンはついに五十本の大台と三割五分の好打率を記録−−堂々の三冠
王となった。そしてここに至り、ついに彼の「育ての親」と「産みの親」が真実を明
かした。「彼は…ベーブルースのクローンです。ルースは悪性の脳腫瘍で亡くなった
のだが、その時の献体が病院に保管されていた。私はそこから彼の遺伝子を取り出
し、試験管で受精させ、この協力者の女性に受胎してもらったのです」
遺伝子工学の専門家である学者とこの女性はもちろん熱烈な野球ファンであり、強
烈な「ベーブルース崇拝者」であった。
「ルースが現代では通用しない…と言われて口惜しかった。確かに百年前の彼をその
まま現代に連れてくれば、そりゃ駄目でしょう。でも彼と同じ才能の人間を現代で育
て、最先端のトレーニングを積ませれば−−」
身体を張った女性の熱意も並大抵ではなかった。
「それで、本人はどんな心境なんでしょうかね?」
記者に促されるように、ジョージ・ハーマン自身が口を開いた。
「自分がクローンだという事は小さい頃に知らされた。でも野球をやってみたいと
思ったのは自分自身さ。誰に押しつけられた訳じゃない。それに断っとくが俺はベー
ブルースじゃない。俺は俺だ。その証拠に…ルースの記録を破ってやる。ルースを越
えて見せてやる!」
野球界はもちろんアメリカ全土が騒然となった。
先ず倫理的な問題、法律的な問題として議論され、野球界としても、これが「フェ
ア」かどうかで論議が沸騰した。しかしすべてを決めたのは「世間」だった。特に野
球ファンが「現代のルース」を見たいという熱望はすべてに優先した。かくして翌年
の公式戦はジョージ・ハーマンを中心に開幕した。
期待に応えて、彼は打ちまくった。オールスターまで四十本の記録を軽々と破り、
百試合目で五十本、そして間もなく六十本の自己タイ記録にも到達してしまった。
七十本を越えるのも時間の問題だ−−−アメリカ中がルースの再来に沸き返った
頃、何と彼の身体が動かなくなった。ついには寝込んで起き上がれない−−−悪性の
脳腫瘍だった。
「残念ながら…現代医学をもってしても、治療法が確立していないそうだ」
産みの親である学者と母親は涙に暮れた。しかし−−
「同じ人間を、同じ病気で二度死なせても良いのか」
プライドを奮い起こしたアメリカの医学界が集結し、一か八か研究中の新しい手法
で手術が行われる事になった。
かくしてルースは、再び命を賭け「実験的な手術」を受けた。
百年間の進歩は大きかった。今回の手術は見事に成功し、もう一人のルースは命を
救われた。
後遺症で運動障害が残り、もう野球界には戻れなかったが、社会復帰のメドも立
ち、晴れて退院する日を迎えた。
病院には数多くの取材陣が駆けつけ、マイクが突きつけられた。
「退院おめでとう、ルース…じゃなかった。ジョージ・ハーマン。でも残念だった
ね……ルースの記録を越えられなくって」
しかし青年は愛嬌のある顔に無邪気な笑みを浮かべて、こう答えた。
「いいや。見てくれよ−−こんなに元気になったじゃないか。俺はルースを越えたん
だよ」
ステッキを突きながら病院を出てゆく青年の姿はどこまでも晴れやかだった。
(完)
2003年05月19日22時58分42秒投稿
『白の炎』 ヘーパイ
おんたけ山は長野・岐阜両県境にあり、飛舞山脈の最南端に位置する。標
高は3063メートル、木曾の御嶽山として知られる。高峻で雄大な御嶽山の山容
は古来より山岳信仰の対象である。白装束に身を固めて金剛杖をつき〈六根
清浄〉を唱えながら登坂する道者の姿は、今日も日常的に目撃される。
白一色に塗装された十数台の車が列をなして進んでいる。恐ろしいほどの
ノロノロ運転である。時速20キロメートルを下回る速度で国道を静々と進む車列
は今、石川県の境を越え隣接する福井へと進入した。沿道には車列を見つめ
る群集の姿があった。その老若男女どもは皆一様に高ぶっている。
「ばんざーい、バンザーイ」と、声高に叫ぶ者がいる。
「…!」無言のままに両手を合わせ、伏し拝む者もいた。
驚くべきことに、先頭を行くのは警察車輌だった。白黒に塗り分けられた
パトカーと機動隊の白バイ部隊が白い車輌の列を先導している。
かつて《怪しげなる集団》と、全日本国民から非難と嫌悪の視線を向けら
れていた白い集団。《パナフレックス研究所》を名乗る彼ら白装束の一団は
今や国を挙げての崇拝の対象となっていた。警察は管轄区域を越えてまで厳
重に警備を行う。《パナフレックス研究所》の白い修験者どもはそんな重要
人物に祭り上げられていたのである。
「ばば様、悲願成就まであと一歩ですな」
白い車列の内部で囁かれる会話である。
「うむ」ばば様と呼ばれた代表である老女は短く答えた。《研究所》を名乗
るが実態はカルト教団の代表である。代表とそれを取り囲む教団幹部の白装
束は満足げな面持ちであった。
《パナフレックス研究所》の白い車列が、根城である福井を出立した時、彼
らの行動に注目する者は皆無であった。だが、白い修験者の車列が福井、岐
阜、長野と山間の林道を縫うように進むにつれ、世間の目は一斉に非難の色。
に染まり始めた。白い修験者たちは野営の度に奇怪な振る舞いに及んだ。自
分達の周り一帯を白い布で覆い尽くすのであった。
「オーム以来の凶悪カルト教団の出現だ」マスコミは騒いだ。
滞在を恐れる自治体は彼ら白い集団を追い立て、躍起になって追い出した。
警察は《研究所》への合理的な立ち入り捜査を目指して、微罪をも見逃すま
いと彼らの行為に目を光らせた。だが、ゆっくりと進む白い集団が松本を過
ぎた辺りで世間の態度が変わった。《研究所》の白い車列が進行方向を西に
向け石川に入った頃には、マスコミは白い修験者達を賛美するようになって
いたのである。そして警察は《研究所》の面々を警護の対象者としたのだ。
「もうじき我々は霊峰おんたけを中心として結界を張る」
車列の車輌の中で《研究所》幹部の一人がいった。
「福井を出て岐阜、長野、石川と我々修行を積んだ道者が反時計回りに道を
進んだのじゃ、確実に結界は張られる」別の幹部が言葉を継いだ。
ふふっ、と笑ってばば様が締めの言葉をつぶやいた。
「霊験はあらたかじゃ。福井の出発点に戻ったとき結界は完成する。さすれ
ば、おんたけは頂きより白の炎を湧き立たせ日本国中を覆い尽くす。全国民
は《パナフレックス教団》の信者となり我らの足元にひれ伏すのじゃ」
ばば様は車窓から沿道の群集を透かし見て言葉を続けた。
「まだ結界が張られたわけではない。だが、見なさい。近隣の者はすでに霊
力に打たれたかして、あの通り我らを崇めたてまつっておる」
唐突に白の先頭車両が停止した。ガス欠であった。警察は即座に給油車を
用意するだろう。だが、それを待つ必要はなかった。今や白い集団はこそこ
そと狭い林道を進んでいるわけではない。道は広く繁華な国道なのだ。沿道
に向けて白い車の窓から「ガソリンを!」と叫ぶだけで事足りた。沿道の若
者は我勝ちにポリタンク入りの燃料を求めてスタンドへ走るのだ。
「お願いしまーす!」給油を待つ先頭車両に若い女が駆け寄ってきた。何事
かなと白い修験者は車窓から顔を突き出す。その顔に頬を押し付けるように
して若い女はポーズをとった。少し離れたところで女の友人らしき女性がカ
メラ付き携帯電話を構えていた。若い女の好きな思い出作りの写真撮影だっ
た。グワシャッ!とケータイは作り物のシャッター音を放つ。レンズ下にあ
る発光ダイオードがチカリとオレンジの光を灯す。白い修験者はなぜかチク
リとした痛みを皮膚に感じた。
「あっ、いいな。いいなっ!」交互に写真を撮影する二人の女の行為が沿道
の群集に羨望の心を湧き上がらせた。我も我もと群集の若者は白い車列に群
がった。今時の若者である。皆が皆、写メール用のケータイを持っていた。
白い車のそばで若者達はピースサインを出した。無数のカメラ付きケータ
イがそれに向けられた。
グワシャッ!同時に奏でられたシャッター音は大音響であった。オレンジ
色の灯火も同時に発光した。それに合わせて白い車の中から「ぎやっ!」と、
奇矯な叫びが上がった。興奮した若者達は叫びを無視する。入れ替わり立ち
代りで白い車を背景に、互いを撮影しあう。
グワシャ!チカッ「ぎゃっ!」…グワシャ!チカッ「ぎゃっ!」これが数
回繰り替えされた。やがて、辺りはシンと静かになった。
群集は我に返っていた。なんでこんな奴らに群がってるのか、と首をひね
る。重い燃料を抱えて息せき切っていた若者達は一斉にポリタンクを放り出
した。正体不明の呪縛から抜け出したのは、長野県警、石川県警の面々も同
様であった。なぜ我々が福井県で活動を?解せぬ思い仕切りであった。
白い修験者は全員が絶命していた。車の中で、耳と鼻から大量の出血をみ
た上での悶絶死だった。口からはごぼごぼと真っ赤な泡を吹いていた。
白い修験者達は知らなかった。カメラ付き携帯電話こそが、彼らの最も嫌
う《スカラー波》なる電磁波を発生せしむる危険な道具であることを。大量
のカメラ付きケータイが一斉に放つ強烈な《スカラー波》は、修験者達を守
るべき白い防護膜などものともしなかったのだ。
使用者は無論のこと、ケータイを製造するメーカーも自社製品が《スカラ
ー波》などを発生させているとは夢にも知らなかった。知る必要などなかっ
たのだ。なにせ《スカラー波》に対して致命的な反応をするのは《パナフレ
ックス教団》の道者だけなのだ。一般人には何の痛痒もない善良な電磁波。
それが《スカラー波》なのだ。
悲願成就の寸前だった。日本制覇を目前にして、無邪気な若者達に目的の
達成を阻止されたカルト教団《パナフレックス》だった。無念であったであ
ろう代表は苦悶の表情に涙をたたえていた。それは真っ赤な涙であった。ま
さに、教団代表の流すそれは《血の》涙であった。
―しまい―
2003年05月18日17時57分26秒投稿
S.S☆「めぐみ」☆ あや太郎
めぐみは身体が不自由だった。生まれた時から、身の回りの事さえ出来ない身体
だった。「名前はめぐみなのに、ちっとも恵まれた人生じゃないなぁ」
心の中で、いつもそんなタメ息をつきながら今日まで暮らしてきた。
身の回りの世話をしてくれたのはお婆ちゃんだった。
お婆ちゃんは中国から日本に移住してきた人だった。その子供や孫は日本語を話せ
るのだが、おばあちゃんは一生、日本語を話せないままだった。
ところが、そのおばあちゃんが「めぐみ」の言葉だけは分かってくれた。
言葉も不自由な「めぐみ」の聞き取りにくい言葉を理解して、世話をしてくれたの
がお婆ちゃんだった。
めぐみが二十歳の時、そのお婆ちゃんが倒れた。年のせいもあって、間もなくお婆
さんは意識もハッキリしなくなった。もう誰が話しかけても答えない。それなのに
「めぐみ」の名前だけはうわ言のように呼び続けていた。よほど孫の事が気掛かり
だったのだろう。 間もなくお婆さんは亡くなった。
めぐみも動かない身体で何度か病院へ見舞いに行ったが、死に目には会えなかっ
た。
淋しくて泣いてばかりいるめぐみに、臨終に立ち会った家族の者がこう伝えた。
「淋しがらなくて良い。お婆ちゃんは三年たったら、魂の姿でめぐみに会いに戻って
くるって言ってたよ」
めぐみはその言葉を信じる事にした。信じていないと淋しすぎるし、これからの苦
しい人生を耐えられそうにないと思ったからだ。
世話をしてくれる人がいなくなった家を離れ、めぐみは施設での生活を始めた。
不便で淋しくて悲しい事が多かった。そんな気持ちを忘れるために、めぐみは勉強
を始める事にした。中国語の学習だった。
「お婆さんが会いに来てくれた時、祖国の言葉で話せるように」
それを励みに頑張った。不自由な口で一つ一つ言葉を覚えていった。
お婆さんが亡くなって一年半ほどたった頃、めぐみは突然お婆さんの声を聞いた。
「めぐみ−−元気かい。会いに来たよ」
それは中国語のようにも日本語のようにも聞こえた。
「あら、お婆さん。まだ三年もたってないのに、どうして会いに来れたの?」
「お前のお蔭だよ。お前が中国語を勉強してくれたから、こうして早いめに話しに来
れるようになったんだよ」
「まぁ、嬉しい。でも本当にそれだけの事で?」
不思議がるめぐみに、お婆ちゃんはちょっと照れながらこう言った。
「実は私も…こっちで日本語教室に通っているのさ」
(完)
2003年05月13日23時29分40秒投稿
『四段おち』 ヘーパイ
「時には すれちがいながら この二本の糸は 一本の固い糸に
なってゆくのさ」 326
(イラストレーター ナカムラミツル)
「…すずと、小鳥と、それからわたし、みんなちがって、みんないい」
みすず
(童謡詩人 金子みすず)
「…人間だもの」 ミツヲ
(書家、詩人 相田光男)
「大瓶ビール一本、290円!…これはやすい!」
みその
(レジャービル 味園)
―しまい―
2003年05月10日11時13分07秒投稿
S.S☆「仏の顔も三度」☆ あや太郎
だらしない男がいた。ろくに働きもせず、人から金をせびっては酒や博打三昧−−
−どうしようもないグウタラだった。
ついに金を借りる相手もいなくなり、家財道具も売り払って、さて何か残ってない
かと家の隅々を探してみると、クモの巣だらけの仏壇の中から小さな木の仏像が出て
きた。
「ちぇっ、金の仏像なら売りも出来るが、こんな汚い木仏じゃしょうがねぇ。捨てち
まえ…」
窓から放り出そうとして、男はふと手を止めた。
「捨てても一円にもならん。そうだ、いっそ拝んで頼み事でもしてみるか。拝むのは
タダだし、駄目もとでやってみよう。苦しい時の神頼みとも言うしな…」
神も仏もいっしょくたに形ばかり拝んでみた。
すると何とした事か、汚れた仏像から後光が差し、仏様の御姿が目の前に現れた。
「お前の先祖たちはワシの事をよく敬ってくれた。不肖の子孫でも、こうして拝まれ
ては現れぬ訳にも行かんでな」
そう言えば多少迷惑そうな顔をしている。
「ほ、ほんとの仏様?こりゃあ良いや。早速願い事があるんだ。百万円ほど用意して
くれ」
「何と、いきなり金の催促か。呆れた話だが、お前の先祖には律儀に拝んでもらった
から仕方がない。願いを聞いてやろう」
その瞬間、仏様の姿は消え、代わりに小さな金塊が転がり出た。
「有り難い。これを元手に一稼ぎだ」
男は早速競馬場に走り案の定、有り金ぜんぶスッてしまった。
「仏様、お願いだ。金を工面して下さい」
「また金か。さっき用意してやったではないか」
「ギャンブルに手を出して失敗しました。いや、もう博打はやりません。ちゃんと商
売します。そのための資金として一千万円ほど…」
「厚かましい奴じゃ。しかし先祖たちには世話になっとるから無下にも断れん。用意
してやろう…」
パッと後光が差したかと思うと、仏像の前にまた金塊が−−
「こりゃ本当に一千万円ぐらいにゃなりそうだ。よし、これを元手に…」
株につぎ込んだ男は、果してまたまた大損をし、借金まで作ってしまった。
「また仏様に頼むほか無さそうだが、今度も助けてくれるかしら?それとも怒られる
かなぁ…。いや、仏の顔も三度って言うじゃないか。三度までは許してくれるはず
だ。よし頼んでみよう。そのあと怒られそうなら、さっさと逃げりゃ良い」
厚かましい男があったもので、また木仏にすがりつく。
「仏様、お願いです。今度は不運にも借金を作ってしまいました。このままじゃ取り
立て屋にトッチメられます。借金を返し、再スタートする為にも資金を一億円ほ
ど…」
言った途端に、後光の中から仏様が現れ、何と今度は男の顔を散々に殴りつけた。
「イテテテテ−−ひどいよ、仏様。何も殴らなくったって…」
鼻血を流しながら男が嘆くと−−
「お前にはこれぐらいせんと分からん」
「でも、俺はまだ二回しか期待を裏切ってないんだぜ。もう一度ぐらいチャンスをく
れたってイイじゃないか。仏の顔も三度って言うのはウソなのか?」
「だからその格言の通りにしてやったのじゃ。仏の顔も…サンドバッグとな」
(完)
2003年05月10日00時05分10秒投稿
今日は、亀虫ぷっぷです。
元姫路市民さん、僭越乍ら私がお答えいたしましょぉ。
瓶二さんのは「長命」または「短命」。
本来は東西共に前者ですけど、それでは落ちを割ってしまいます。
で、現在上方では後者を使用してますな。
確か米朝師匠の工夫やったかと…。
東京はあいも変わらず長い方みたいですけどね。
雀松さんとか喜丸さんのが面白い。
恭瓶さんのは記憶にございません。
ひょっとしたら新作かも…。
何れにしてもあんまりええ落ちやありませんな。
以上。
2003年05月07日13時30分55秒投稿
元姫路市民です。
今回は落語の演目を教えてもらいにきました。先日行われた「第6回甲子園寄席 笑
福亭鶴瓶一門会」での落語なんですが、終わったあとも誰が何を演じたか張り出され
ていなかったんです。(見落としてたらすいません)噺家さんもはっきりとおっ
しゃってなかったので(聞き逃していたらすいません)分かりませんでした。
瓶二さんがされてた噺は、ええ店のだんなさんが亡くなって、そこの一人娘と結婚し
たら夫が早死にしてしまう。植木屋がそこの葬式に行くのでくやみを教えてもらう。
くやみを教えるついでに
「そこの娘さんはきれいか。しかも器量がよい。夫婦仲がよかって夫はすることな
い。いつも部屋で一緒。そら短命やな」
と。植木屋がなかなか気づかないので
「ごはんをよそうと手が触れる。こたつの中では足が触れる。すぐそこには布団があ
る。家事は女中がしてくれるから昼間から二人きり。短命やろ」
と具体的に教えます。やっと分かった植木屋。家に帰るとがさつであいその悪い嫁に
「ちょっとは女らしいにしてくれ」
と色っぽいしぐさとか教える。だんだんのってきた嫁を見て
「手を握ってむさぼりつくよな・・・俺は長生きや」
となげいてでんでーん。これ「くやみ」っていう噺ですか?
もうひとつ夫婦の噺。これは恭瓶さんが演じてました。
大将の家に若い男が訪ねてきます。しかし大将は留守。かわりに奥さんが応対した。
妻「うちの人、お茶にはまって茶室作るんよ」
若「この不景気に大将はすごいでんな」
妻「いやいや、あんたら若い衆が働いてくれたおかげや」
とだんなをほめずに若い衆をほめた。これに若い男は感動。妊婦とはいえあざらしみ
たいに黒く寝そべっている自分の嫁にも大将の奥さんの話して見習うように言う。
「ほめたるから茶室たててみい」
とぼろくそ。男はすごすごと風呂屋に向かいます。
そこで友達に会う。その友達に自分の家を褒めさす。そして
「お宅の大将働きものですな」
と嫁に聞いてもらい何と反応するか見てもらう。
友達は家に行くが褒めるものなんにもあれへん。でかい蜘蛛や油虫くらい。唯一褒め
るところを発見。
「へえ奥さんのおなかには子供がいてますのか?大将がんばりましたな」
「いいえ、町内の若い衆ががんばってくれたからや」
で、でんでーん。
その分師匠の鶴瓶さんは「へっつい幽霊です」とちゃんとおっしゃってました。
「最近はへっついが分からん人が増えてきました。分からない人は隣に聞いてくださ
い」
とへっついの説明をはぶいてました。一応
「今でいうガスコンロみたいなもん」
と言うてましたが、それなら「かまど」でいいと思うのですが。かまどやという弁当
屋だってあるんですから。
2003年05月07日00時57分34秒投稿
S.S☆「光速を越えて」☆ あや太郎
巨大な宇宙ステーションが完成していた。
全高千メートル、直径五百メートル−−−まるで巨大な「独楽(コマ)」のような
形状のそのステーションを見ていると、その本体よりも中心部から二方向に突き出さ
れた「アーム」の長さに圧倒される。その長さそれぞれ六千五百キロメートル−−反
対方向にヤジロベエの腕のように張り出した両腕を合わせると何と一万三千キロメー
トルにも達した。
「ちょうど地球の直径と同じ距離だ。つまりこのステーションが一回転すると、地球
が一回自転するのと同じスピードが得られるという訳だ」
頬の痩せこけた学者が言った。
彼こそ、この巨大ステーションの企画立案者…そしてこれから命を賭した実験の
「テスト・パイロット」になろうという人物であった。
「このアームの、中心から六百キロ余りの場所に超強力ロケットエンジンが一基ずつ
取り付けてある。これをそれぞれ逆方向に噴射すると当然ステーションはコマのよう
に廻り始める。それを徐々に加速して行くと、エンジンは最終的に光速の十分の一の
速度を生み出すはずだ。
「すると中心部から十分の一の場所で光速の十分の一の速度ですから…アームの先の
部分は…?」
確認するように立会人たちが聞いた。
「光速を僅かに越える計算だ。その時、アームの先端部分で何が起きるか−−それを
確かめるために私はこれからアームの一方に設置されたコックピットに乗り込む」
所期の計画通りとは言え、この命懸けの試みに、改めてどよめきが起きた。
「もう一方のアームには各種観測機器が据えつけられてあるので、諸君は刻一刻、ど
のような変化が起きるか観測をしてくれたまえ」
人類始まって以来の壮大な実験に研究者たちも入れ込む一方だ。
かくして学者はコケた頬を紅潮させながら、長いエレベーターを乗り継ぎ、六千五
百キロメートル先のコックピットへと乗り込んだ。
学者は末期癌に侵されていた。
医学が進み、大抵の病気は直せる時代になってはいたが、手遅れになるほど悪化し
た癌はさすがに未だ治せないでいた。
研究にのめり込む余り、発病にも気づかず手遅れになってしまった学者だったが、
それを逆手にとってのこの壮大なプロジェクトでもあった。
余命いくばくもない学者が命を賭けて取り組む歴史上の大研究−−そのお蔭で資金
も集まり、また余命が少ない分、命を落としても損は無いと割り切ることもできた。
ぼちぼち胃や肝臓の辺りにも痛みが出始めている。
「苦痛に喘ぐ前に、派手に散ったほうが楽なくらいのもんだ」
そう吹っ切れた学者は、むしろ一挙両得の気分で光速を迎える瞬間を待った。
「二十四時間で一回転しました」
もはや地球の自転速度に達していた。
「一時間で一回転です−−−十分で一回転です−−−1分で一回転……大丈夫です
か、博士?」
「胃が痛い以外は何とも無い。安心してくれ」
目標はもちろん一秒で七回転半だ。それで光速に達する。
巨大ステーションとアームは空中分解を起こさぬよう、ゆっくりゆっくりと速度を
上げながら、何日目かのある日ついに光速に達した。
「コックピットの観測機器が…停止しました!」
「博士のほうはどうだ?博士−−博士…!」
こちらからも応答はなかった。中央のステーションから見た「腕の先」はまるでカ
ゲロウのように揺らいでいた。そして間もなく−−
「消えた!−−−コックピットが消えた。スピードを緩めろ…」
しかし博士と観測機器を乗せたコックピットは両方ともすでにこの宇宙から消え
去っていた。
「偉大なる実験のために、博士は尊い命を投げ打たれた。いや、博士はどこか別の宇
宙で生きてらっしゃるかも知れない。そして少なくともこの偉大な実験の結果に満足
されているに違いない。博士は消えてもその名と栄光は永遠に残ることだろう」
皆が学者を讃え、偲んでいる頃、当の本人は「見えない宇宙」で脂汗を流してい
た。
「向こうからは見えないようだな。なにせ時間が止まった世界に来てしまったのだか
ら。それにしても困った。胃の痛みは一向に止まってくれない。いや、ひょっとする
と永遠に痛み続けるのかも…。チクショー、何てこった!肉体も名前も栄誉も消えて
しまったあとに、胃の痛みだけが永遠に残るだなんて…」
(完)
2003年05月06日23時36分29秒投稿
『金の斧、銀の斧―パート2―』 ヘーパイ
その日の昼過ぎ、木こりは湖のほとりにある林に姿を現した。長身に白い
肌。碧眼に金髪と、木こりにはアングロサクソンの肉体的特徴が見て取れる。
彼の手には随分古ぼけた斧が握り締められていた。その斧は錆が浮き刃は
こぼれ、柄などは数度の打撃でへし折れてしまいそうに頼りない。
木こりが水辺を散策するように水際に沿って暫く歩くと、やがて少し小高
くなった場所が現れた。湖底はその場所で急に深みとなっているらしく、水
はそこから突然不気味なほど暗い色に変化していた。都合よくそこには若々
しい木が一本、緑の葉を誇らしげに茂らせている。木こりは古びた斧を振る
う相手を即座にその木と決めた。
最近木こりは近所で《金の斧、銀の斧》のお話を耳にしていた。少しおつ
むの弱い木こりはこのおとぎ話を実話だと鵜呑みにした。その上で今日は棄
てても惜しくない古い斧を持って来たのである。木こりは倒す気などはさら
さらない水辺の木の幹に、切れ味の悪い古びた斧を叩きつけた。
コーン!コーン!コーン!とそれでも澄んだ音だけは湖表に響き渡った。
次に斧を背後に大きく振りかぶったとき、木こりはわざと手を滑らせた。斧
は木こりの手を離れて宙を舞い、ぽちゃん、と音を立るとまんまと湖の底へ
と沈んで行った。木こりはいかにもガックリといったていでその場に膝を折
ると、両手を胸に当て大きく天を仰ぎながら「ああ、おらの斧が…大切なお
らの斧が…湖に沈んじまっただよ…」と、虚空に向かって呟いた。
木こりのその絶望的なセリフは、実に絶望的なまでにへたくそな木こりの
演技力によって語られたのだった。
さて、やるべき事を済ましてしまうと今日の木こりにはもうするべき事は
ない。木こりは持参した固いパンと一塊りのハムをバスケットから取り出す
と、がつがつと喰らい、安物の酸っぱいワインで口中の食物を飲み下した。
食い物を食って、飲む物を飲んでしまうと木こりは眠くなった。じっと座
ってただ湖を眺めていると、ついトロトロとまどろみそうになってくる。
《いかん、眠ってはいかん。寝込んでしまっている間に湖の精が現れたらど
うする。わざわざ眠っている俺をゆすり起こしてまで「これ、木こりよ、そ
なたのなくした斧はどれじゃ」などと訊ねるほど湖の精は親切ではないかも
しれないではないか》
心で強く戒める木こりであったが、鉛のように重くなる瞼はいかんとも始
末しがたかった。
「ほんの少しだけ、ほんの短い時間だけ」と、気楽な木こりはごろりと横に
なると、たちまち眠りの深みへと沈んでいったのだった。
太陽が少し西へと移動し風向きはゆっくりと方角を変えた。その時である。
計ったように正確なさざなみを律儀に刻んでいた湖の表面が俄かに不自然な
揺れを見せた。木こりが寝込んでいる地面近くの深い水底から、滲んだよう
に見える大きく黒い物体が、湖表目指してゆっくり浮上してくるのが見えた。
何やら幅広の手漕ぎボートをひっくり返したような流線型である。その流
線型の前後には太いくだ状の物が付属して長く伸びている。
やがて湖面を波立たせて黒い物体は、ごぼりっと水面上に姿を現した。そ
の黒い小山のような物体は差し渡し3メーター程の長さを持っていた。つる
りとして見える表皮は鯨やイルカのそれに近い。背骨なのであろうか、背中
の中央部分には船の竜骨に似た隆起がくっきりと盛り上がって縦方向に走っ
ている。
ぶ厚そうな背中の皮膚の下で隆々とした筋肉がぐにぐにっと蠕動を見せ
た。するとそれに連れて今だ水中にあったくだ状の黒く太い物体が、大蛇の
鎌首を持ち上げるさまに似た動きを見せて、夥しい水を滴らせながら遂に水
面上へとその全貌を露わにしたのである。
やはりそれは首であった。今その謎の巨大水棲生物は2メーターにも届こ
うかという黒く太い首をにょっきりと水面に突き出し、凛とした表情でその
首を真っ直ぐ天へと屹立させたのである。首の先端には大きな胴体に比較す
るとやや小振りな頭部がついていた。
太古の地球に繁栄を見た巨大な首長竜。それが今不気味な静けさを湛える
湖の底より姿を現したのである。
首長竜の口は木こりが湖に投げ込んだ斧をくわえていた。首長竜の頭部が
ゆっくり回転し陸の方に視線が向いた。首長竜の眼が、地面の上で寝くたれ
ている木こりの姿を捉えた。
首長竜は長い首を軽く後ろへ反らせたかと見ると、すぐさましなやかに地
面の方へ頭を振り戻した。あご先を地面へ突き出すようにして首長竜は大き
く口を開いた。古びた斧は首長竜の口から放れ柔らかく弧を描きながら木こ
りのそばへと飛んで行った。
どん、と木こりの肩口から少し離れた場所に落下した斧は、ばさばさと下
草を踏みつける音をたてて地面の上に横たわった。斧が着地する気配を感じ
たのか、寝込んでいる木こりの身体が僅かに反応したように見えた。
だが、木こりは少し身体を動かしただけで、やはり目覚める事もなく再び
すやすやと寝息の音をたて始めた。首長竜のくるりとした目の奥には微かに
刺すような影が窺えた。
「俺たちの棲み家にこんな薄汚い斧を放り込むんじゃないぜ」という風に。
この辺りは昼間の短い地方である。もう日はすっかり西へと傾いていた。
湖面は忽然と霧や霞みを湧き立たせ始めていた。
鬱蒼とした森林に囲まれた湖のことである。ただでさえ薄暗く不気味な風
情が漂っている。そこへ霧が立ち込めると陰鬱な雰囲気はいやでも高まる。
首長竜は唐突に行動を起こした。よくしなる長い首を後方へ鞭打つように
のけぞらせたのだ。首の動きの勢いにつられて巨大な胴も背面から水に向か
って倒れ込んでゆく。鮮やかに湖表でとんぼを切った竜は、するりっと滑ら
かに全身を水中深くに沈めてしまった。
だが、音も水しぶきも立てはしない。ただ水面には規則正しい波紋が広が
っているだけであった。この神業的な隠密行動こそが古代生物、首長竜たち
を湖の霞として隠匿せしめた秘訣なのであろう。霧はさらに濃さを増し辺り
はミルクを流したようになった。首長竜は幻のように消えた。
一方、高鼾の木こりであったが、風が運んで来た湿っぽい霧に全身を撫で
られて堪らず目を覚ました。ぶるっと胴震いをした木こりは辺りの様子に驚
いた。はや黄昏時である。「しまったすっかり寝込んでしまったわい」と後
悔した木こりであった。その彼が寝ぼけまなこで、ふと傍らに目を遣るとな
にやら斧らしき物がそこにある。
手を伸ばしてその斧を拾い上げた瞬間、木こりの形相が変わった。その斧
は間違いなく自分が湖の中に投げ込んだ筈の古い斧なのである。木こりはあ
まりの悔しさに全身を波打たせた。まさかと思った湖の精は確かに現れたの
だ。だが眠り込んでいる自分を見て、鉄の斧だけを傍らに放置すると湖の精
はそのまま再び湖に帰ったのだ。木こりはそう確信した。計り知れないほど
高価であろう金銀の斧。木こりは手に入れそこなった物の価値を思い、悔悟
の念にただ全身を石にして佇み続けるのであった。
時代は18世紀末、ところはスコットランド北部、インバネスの南のはず
れ。木こりが仕事場と決めている林は、ネス湖と呼ばれる寂しげな淡水湖の
ほとりにあった。
―しまい―
2003年05月02日10時45分14秒投稿
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